山崎蒸留所(サントリー)

「 山崎は、桂川、宇治川、そして木津川の三つの川が合流する地点にあり、地形的にも霧が発生しやすい湿潤な気候。熟成を重ねる樽に潤いをもたらすこの環境は、ウイスキーづくりに適していました。
もう一つの決め手となったのが、山崎の水です。山崎は、はるか昔、万葉集でも多くの歌人に詠まれた名水の里。安土桃山時代には、茶人の千利休がこの地の水を愛し、秀吉のために茶室を構えて茶を点てたことでも知られています。」
出典:「鳥井信治郎の想いから始まったウイスキーづくり」

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白州蒸留所(サントリー)

「大西は山崎の地を見出した鳥井信治郎の信念を引き継ぎ、良い水にこだわり、良質でウイスキーの仕込みに最適な水を求めて日本各地を調査しました。源流奥深く険しい山中にまで分け入り、貪欲に水の調査をしたことから、"水の狩人"とも呼ばれていたんですよ。そして見つけることができた条件を満たした土地が、白州の地だったのです。 大西は始めてこの地の水を飲んだとき『まだ日本にもこんな水があるのか』と驚きました。ようやく見つけることができたウイスキーの理想郷。大西は、湿潤で自然に恵まれたこの地を見出したとき『飛び上がるほどうれしかった』と語っています。」
出典:「『森の蒸溜所』白州蒸溜所」

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余市蒸留所(ニッカウィスキー)

「余市にはウィスキー作りに必要なものが全てあった。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良質な水、豊富なピート(草炭)層。さらに北海道は大麦の産地で樽材になる気も潤沢だった。上流に必要な石炭もある。
『霧が立ち込める朝なども、懐かしいスコットランドにそっくりだ』と、(竹鶴)政孝は迷うことなく余市に決めた。」
出典:「『ニッカ』始動」

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宮城峡蒸留所(ニッカウィスキー)

「宮城峡蒸留所は(昭和)四十四年竣工。最初の蒸留を終えたとき、政孝は従業員全員を集め原酒のテイスティングをした。口に含み政孝は、『違うな』と言った。『意に満たないものができたのか』とうなだれる従業員を前に、政孝は付け加えた。
『これでいいんだ。北海道のものと違うからいい。これはおれが作ったのではない。この土地が作ってくれたものだ』そして工藤を呼び、『感謝を込めて、この酒を川に注いできてくれ』と命じた。工藤は涙をこらえながら川まで走り、できたての原酒をそそいだ。」
出典:「『ニッカワ』との出会い」

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「三百数十年の歴史をもつスコットランドでも、三つのタイプの工場を作った企業も人もいない筈(はず)である。幸いにも命ながらえて、その宿題を達することが出来た。私は、ウィスキーに生きた男としての幸せを、今更のようにかみしめている」

竹鶴政孝
(ジャパニーズウィスキーの父)

マルスウィスキー(本坊酒造)

「国産ウイスキーの生みの親として知られる故竹鶴政孝氏。 当時、24歳だった竹鶴氏に日本の本格ウイスキーの夜明けを託し、上司として彼を英国に送り出した男。その人こそ、マルスウイスキーの生みの親、故岩井喜一郎氏です。 竹鶴氏は、スコットランドにおけるウイスキー研修の結果を「ウイスキー報告書」にまとめ、岩井喜一郎氏に提出しました。それこそ、後に国産ウイスキーの原点となった「ウイスキー実習報告書」通称「竹鶴レポート」です。 マルスウイスキーは、その岩井氏の指導のもとに設計されたポットスティルによって造られた原酒を元に誕生しました。以来、ひたすらに正統スコッチウイスキーを超えるべく、原点に忠実に、本物のウイスキー造りに情熱を注いできたマルスウイスキー。その成果は、ウイスキー通の間で"幻の逸品"と称されるまでになりました。 」
出典:「竹鶴レポートと岩井ポットスティル」

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イチローズモルト
(ベンチャーウイスキー)

「蒸溜所は市街地から車で30分ほどの小高い丘の上に建てられた。夏は高温多湿、朝晩が氷点下にいたる寒さの厳しい環境だ。しかしその厳しい環境はウイスキーの熟成に多大な影響を与えると言われ、短い熟成期間にも関わらずフルーティでバランスの良いウイスキーが仕上がっている。 仕込みには天然のミネラルが溶け込んだ大血川渓谷水系の軟水を使用。また近年では地元埼玉県産の大麦を使い、小ロットながらフロアモルティングを始めている。 スコッチウイスキーの伝統的製法に習いウイスキー造りを行い、秩父の風土が生み出す独特の個性を確立させようとしている。」
出典:「秩父蒸溜所」(WHISKEY MAGAZINE)

(秩父蒸留所は一般公開されていません)

澄んだ水と、美しい琥珀色の液体が比重のもたらす
滑らかな模様をしばらくの間描き、 やがて一つに溶け合っていく。
この瞬間はそれなりに素晴らしい
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」
村上春樹